【歴史】日本とスウェーデンを繫いだ第一人者「ツンベリ」に会いに
時は遡り江戸時代。(ドドン!)
三代将軍家光により、日本は鎖国を開始。
200年以上もの間、オランダ・中国以外の外国に対して門戸を閉ざしていた。
しかし!
「見ないで」と言われると見たくなってしまう鶴の恩返しの老夫婦のように
「来ないで」と言われたらますます興味を唆られるものなのでしょう。
しかもその人はウプサラ大学の人間だったのです!
その人は…
ツンベリ!
ツンベリと時代背景
本名は"Carl Peter Thunberg"
スウェーデン語の発音って日本人にとってとても難しいんです。ドイツ語を学んだことがある方にはわかりやすいかもしれません。
スウェーデン語で、
gは英語の"i"や"y"の発音をすることが多いのです。
例えばスウェーデン第二の都市 "Göteborg"。
英語で書くとGothenburgとも書くので、スウェーデン語を知らない時は
「ゴーテンブルグ」と勝手に呼んでいました。笑
しかし、スウェーデン語の発音通り読むと、
最初のGは"Y"、最後のgは"i"として読むと
「ヨーテボリ」となるのです。
つまり、今日の主人公"Thunberg"のbergは beriと読むと正確に読むことができます。
ツンベリは、1743年にスウェーデン南部の町、Jönköping<ヨンショーピング>で生まれたあと、(時間が飛ぶのですが)
かの有名な植物学者カール・フォン・リンネのいるウプサラ大学で植物学と医学を学びました。
ある時、ツンベリはこう命令されました。
「日本の植物を調べてこい」
日本の植物を調べろと指示されたツンベリですが、、、
考えて見てください。
1700年代の日本って、どんな状態でしたっけ???
江戸時代中期、日本は鎖国の真っ只中でした。
日本と貿易が許された国は
オランダと中国だけだったはずです。
そんな時代に、ツンベリは日本に来れたのでしょうか…?
ツンベリ、オランダ東インド会社へゆく
ツンベリはこう考えました。
「日本と国交を許されているオランダ人として日本に入れるかもしれない…?!」
そこでツンベリはオランダへ行き、
東洋貿易の拠点になっているオランダ東インド会社へ入社しました。
そして数年間東インド会社で働きオランダ語を習得し、日本へ行く準備を整えたのです。
そして遂に、
1775年、オランダ商館付医師として、ついに日本入国を果たすのです!
こうして、スウェーデン人が初めて日本に訪れる歴史が作り出されました。
ツンベリの日本での活動
ツンベリは医師として日本入国を許可されましたが、本来の目的は変わらず
「日本の草を採取すること」でした。
通常なら出島を訪れた外国人は島の外、日本列島内へ入ることは許されていません。
しかし東インド会社一行は上陸許可がおり、江戸の徳川家治に謁見された記録も残されています。
ツンベリは、この日本横断を植物採取の絶好の機会と踏みました。
道中で草を採取するのですが、
歩いている時に草花を抜き出したら不思議に思われますよね。もはや外国人が日本の草を引っこ抜いてたら怪しいことをしているかもしれないと誤解される可能性もあります。
私が聞いた話によると
「ツンベリは道中わざと転び、地面と体が近い状態でこっそり植物を採取した」
そうです。
中々に賢い、というか、ズル賢いというか…笑
それ程に日本でのミッションを達成したい思いは強かったのでしょう。
日本を離れた後
ツンベリは1776年には日本を離れ、様々な国を経由、訪問し
1779年にようやくスウェーデンに帰国します。
そしてウプサラ大学の植物学教授を経て、ウプサラ大学学長まで上り詰めました。
そしてツンベリが集めた草花の標本は今でも同大学に残っているそうです。
また、ツンベリは日本で弟子を作り、帰国後も彼らと文通を交わしていたそうです。
しかしツンベリは「オランダ人」として日本に来ていたため、
本文の言語はオランダ語なのですが住所はスウェーデンという不思議な状態で手紙のやり取りをしていたそうです。
この文通の形跡もウプサラ大学に保管されています。
私は発見することができなかったのですが、
平成12年に天皇皇后両陛下がウプサラをお尋ねになられた際、この手紙をご覧になられたそうです。
天皇皇后両陛下 オランダ・スウェーデンご訪問(スイス・フィンランドお立ち寄り)時のおことば・ご感想 - 宮内庁
このお話はどこから聞いたの?
今述べたツンベリと日本の関係は、大学の授業で学んだわけではありません。
今年の5月上旬、先輩とスウェーデンのFalun<ファールン>という街を旅していた時でした。
ファールンには世界遺産となった鉱山があるため訪れたわけですが、
1日目の夜ご飯を求め、レストラン街を彷徨っていました。
偶然見つけたハンバーガー屋さん"Pitcher's"に入り、席を案内されると
たまたま隣の席にアジア系の人が座っていました。気にせず座ろうとしたら
「日本人ですか?」
と日本語で聞かれたのです。
たまたま私が大学のパーカーを来ていて、それで判断したそうです。
「このお方、見覚えありませんか?」
そういって、年配の方を指して知っているか否か聞かれましたが、生憎知らない方でした。
そうしたら、その年配の男性は私の大学の元副学長の方で、学内の北欧研究の第一人者の方でした。
入学した年と教授が退職された年が重なっていなかったのでお目にかかる機会はきっとなかったと思いますが、北欧留学者の中ではとても有名でお名前だけは聞いたことがありました。
同じ大学、そして田舎町ファールンで偶然会ったということで大歓迎され、
教授から1時間ほど特別授業をしていただき得た知識がこのツンベリ関連の歴史でした。
留学中はあまりにも偶然すぎな出会いと貴重な講義を受けさせていただいたので
秘密に…秘密に…と誰にも言わなかったのですが、
もう帰って来てしまったので誰かに聞いて欲しいと思って今回まとめてみました。
ツンベリに会いに長崎・出島へ
帰国する前、ウプサラ日本人会の方で長崎出身の方がいて、
その方に「ツンベリのモニュメントが出島にある」というお話を伺っていました。
ぜひこの目で見てみたいと思い、9月に長崎へ飛びました✈️
1日目の夜、出島を訪れ、その石碑を発見しました。
多分、オランダ語で書いてある石碑ですが、
2行目にはっきりとTHUNBERGと読むことができます。
ツンベリの他に、シーボルト、ケンペリーを合わせて「出島の三学者」と言うそうです。
ツンベリが約250年前に足を踏み入れた場所と同じところに足を踏み入れることができたのはとても感慨深かったです!
まとめ
ツンベリとは私にとって、
「日本に最初に訪れたスウェーデン人」
と言う括りだけでなく、
「日本に最初に訪れたスウェーデン人はウプサラ大学の大先輩、そして大先生」
として認識しています。
もし私がウプサラ以外の大学に留学していたならば、ファールンでお会いした教授の話を細かに覚えていなかったでしょうし、長崎へも行かなかったと思います。
人とのご縁で導かれた留学だったなと回想しております…。
私視点での話ばかりしてしまいましたが、
ツンベリという人物が日本とスウェーデンの関係に大きく関係していることが伝わっていたら嬉しいです!
それでは、Hej då!!